2017年7月19日水曜日

中動態?


「~する」という能動態でも、「~される」という受動態でもない、
その中間にあるのが、「中動態」なのだそうです。
それについて、哲学者の國分功一郎さんが議論されている記事を興味深く拝読しました。

古代ギリシャ語の態は、能動態・受動態・中動態の3つに分類されていたそうですが、

Wikipediaには、「サンスクリットでは中動態が広く使われる」とあるではないですか。

サンスクリットに「能動態でも受動態でもない中動態」なんて無いのに。


サンスクリットの文法体系を2500年前に人工言語(メタ言語)化して保存した、
パーニニ・スートラ(3.4.69)に基づいて説明すると、

「態」を「प्रयोगः [prayogaḥ], Voice」と訳すのなら、
サンスクリットの動詞には3つの態しかありません。

1.能動態 (कर्तरि प्रयोगः, 動詞の活用語尾が行動の主体と呼応している)
2.受動態 (कर्मणि प्रयोगः, 動詞の活用語尾が行動の対象物と呼応している)
3.動詞が主語 (भावे प्रयोगः, 動詞の活用語尾が動詞と呼応している)

能動・受動、というのは一般的なアイディアであるのに対して、
कर्ता(主体)とकर्म(対象物)は、文法的専門用語(पारिभाषिक)であり、
パーニニ・スートラにおいて、明確に定義されています。


कर्ता(主体)とकर्म(対象物)、そしてその他の行動を達成するための要素が、
どのように定義されているか、パーニニ・スートラを通して勉強するだけでも、
この世界のあらゆる現象の客観的な理解を助けてくれます。

さらに、能動態・受動態・動詞が主語の態は、動詞の原型のタイプに依っても決まります。

・ 自動飼 (अकर्मक-धातुः)intransitive
行動(व्यापारः)とその結果(फलम्)の場所が同じ(समानाधिकरणम्)である行為。
能動態と動詞が主語の場合にのみ使われます。

・ 他動詞 (सकर्मक-धातुः)transitive
行動(व्यापारः)とその結果(फलम्)の場所が違う(व्यधिकरणम्)行為。
能動態と受動態の場合にのみ使われます。


では何故に、サンスクリット語にも中動態があると言われるのか?


植民地時代の19世紀前後に書いた文法書には、
Active voice(能動態), Passive voice(受動態), Impersonal voice(動詞が主語)
の3つの上に、さらに、
Middle voice(中間態/中動態)というもう一つの態が、
他の動詞の活用表と並んで、追加されています。


能動態、受動態、というひとつの次元の延長線上に、
その次元には属さない、より多次元から成り立つアイディアを、
「中動態」と、もうひとつのアイテムとして増やしてしまうなんて、
自分達のアイディアに何でも押し込める、 なんとも西欧至上主義的。。

日本の大学などで使われているサンスクリット語の教科書も、
こういった西欧人が書いた文法書に基づいています。

多次元なアイディアは、ひとつひとつが世界の理解を助けてくれるのに、
それを、うわべの形だけを見て、無理矢理一次元に押し込めるから、
「暗記ベースの超難解な科目」になってしまうのじゃないかな。

サンスクリット文法は、理解ベースで楽しく勉強できるのに。。。

私はインドで伝統に沿ったパーニニ文法教授法で教わりましたが、
英語や日本語で書かれたサンスクリットの文法書は、
西洋主義的なものしかなかったので、
だから、私はヴェーダーンタを教えながらでも、
サンスクリットの文法書を書いているのです。
今は全部英語で書いていますが、そのうち日本語でも書きますね。

パーニニ文法の枠組みは、動詞を多元的に分析するツールを与えてくれます。

6つのकारक、3つの動詞のप्रयोग、2種類ある活用語尾、
動詞の原型の2タイプ(सकर्मक, अकर्मक)、3タイプ(P, U, A)、等々、、、

これらの多元的なサンスクリットの文法の枠組みは、
ものごとの本質を見抜く為の、とても便利なツールです。

それらの多元的な枠組みをごっちゃにして、
一元的にしてしまうから、本質が見えにくくなり、
何とも分別の付きにくい、ミステリアス(=明瞭に理解されない、の同義語)
な議論に聞こえてしまうのだろうな、と思います。


では、ここで言う中動態は、どのような場合に見られるのか?


パーニニ文法に沿って説明すると、2種類あります。

まず先に、サンスクリット語の動詞の活用語尾は、
3つの人称と3つの数で9つあり、それが2セット(2種類)ある、
ということを説明しなければなりません。

2種類の動詞の活用語尾(接尾語)

1.Pタイプ(परस्मैपदम्)
2.Aタイプ(आत्मनेपदम्)

受動態・行動が主語の場合の活用は、Aタイプ(आत्मनेपदम्) の接尾語が使われます。
能動態の場合は、動詞の原型の種類、使われ方によって、
Pタイプ(परस्मैपदम्) もしくは、Aタイプ(आत्मनेपदम्) が使われます。

能動態において、Aタイプ(आत्मनेपदम्)の接尾語を使って活用した動詞は、
それを西欧的な考えを当てはめて説明すると、中動態と呼ばれるのです。

1.能動態においてAタイプ(आत्मनेपदम्)の接尾語をとるタイプの
動詞の原型(आत्मनेपदी)を、能動態で表す場合。

2.能動態において両タイプの接尾語をとるタイプの動詞の原型(उभयपदी)を、
行動の結果が主体に向けられている場合(कर्त्रभिप्राये क्रियाफले)、
それを能動態で表す場合。

だからどちらとも能動態なのです。
サンスクリット語に中動態なんてありません。

しかし、中動態がなくても、サンスクリットは、
「する」「される」「させる」「させられる」、何でもいいですが、
あらゆる行動と、意志までも含めた行動に関わるあらゆるものの、
絶対的な存在の無さを教えています。
最終的にそれを教える為にサンスクリットがあると言っても過言ではありません。

नवद्वारे पुरे देही नैव कुर्वन्न कारयन् ॥5.13॥

नैव किञ्चित् करोमीति युक्तो मन्येत तत्त्ववित् ।
पश्यन्शृन्वन्स्पृशञ्जिघ्रन्नश्नन्गच्छन्स्वपञ्श्वसन् ॥5.8॥


中動態って?


説明を読む限り、フランス語とかの再帰動詞の原型のような感じがしますが、
サンスクリット語には再帰動詞も無いですね。至ってシンプルです。

しかし、言語を比較しているだけでも、「する」「される」「させる」「させられる」って、
そんなにはっきり対立したアイディアでは無いということは、浮かび上がって来るものです。
「生まれる」は日本語とサンスクリット語では、能動態ですが、英語では受動態だし、
「興味を持つ」のも、日本語では能動態だけど、英語では受動態。
こういうのは、中学校の頃から面白いと思っていました。

サンスクリットで、नश्यति(滅する)、 नाशयति(破壊する)が、
どちらも英語ではdestroyであるように、再帰と使役が英語では同一単語、
というのはよく見受けられます。

そもそも、
シャツのどこを取っても、糸や細胞や素粒子であって、シャツではないように、
行動というものも、それ自体で絶対的に「こうだ」と言えるものではありません。
食べるもの、箸を持っている、つまんでいる、口に入れる、咀嚼している、、、
あらゆる、食べること以外の動詞から成り立っています。


そして、意思と意識は結びついているように見えるけど、
それらの関係はどのようなものか?
संयोगः = 別々に存在できる二つのものがくっついているのか?
समवायः = 本質的にくっついて、ふたつはひとつなのか?
आध्यासिकः = 別のものが同じであるように見えているだけなのか?


行為の絶対的な存在の無さ、
自由意思が使えるかどうか、
意思と意識、つまりकर्तृत्व と आत्मन् については、
ヴェーダーンタで扱われる主題なので、また別の機会に。。



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2017年7月16日日曜日

ジュニャーナ?ギャーナ?ニャーナ?ज्ञान [jñāna] の発音はどうするべきか?


サンスクリット語は基本的に、書いたとおりに発音します。

ज्ञान [jñāna]の発音を説明するにあたって、
カタカナで表現できる音には限界があるので、
カタカナを使って説明を試みても正しい発音には辿り着かないので、
サンスクリットの発音の詳細をシステマッティックに紹介している
शिक्षा [śikṣā]という小さな文献をマスターすれば、
正しい発音が何か自然と導かれます。

拙著にशिक्षा [śikṣā]を詳しく分かり易くまとめているので、
参考にされてみるのも良いと思います。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B01EHY4G54/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B01EHY4G54&linkCode=as2&tag=blogsyahooc0b-22
わかりやすいサンスクリット語の正しい発音と表記
詳しい理論解説 発音矯正指導 動画・音声付き Kindle版もあります


ジュニャーナ、ギャーナ、そして私が使っているニャーナ、
全てのカタカナ表記は妥協策です。
ज्ञान [jñāna]を表すのに、
ジュニャーナ[jyunyāna] 、ギャーナ[gyāna]、ニャーナ[nyāna]
カタカナではどれも一致しませんね。

私がジュを前に付けなかった理由は、
jは、後ろのñの影響でただでさえ聞こえにくいのに、
そこにyとさらに母音のuまで付けて、
jという半拍の子音を
0.5(j)+0.5(y)+1(u)(母音は1拍)=2拍(jyu, ジュ)
で表すのはtoo muchかな?
と思っただけです。

jは英語のknowのkのようなサイレントではないのですが、
(でも普通は殆ど聞き取れないくらいに、後ろのñに飲み込まれています。)
カタカナで書く以上、どこかで妥協せざるを得ないので、ニャーナとしています。

サンスクリットをカタカナで書くこと自体に違和感があるのですが、
日本の一般の人に向けて発信する時にはカタカナ表記無しではコミュニケーションは難しいので、
それならば、他の人とは違うことをやって、
考える人には?と思ってもらいという願いから、ニャーナというカタカナ表記にしました。

ギャーナはインド人の殆どがそう発音しますが、
gutturalの音が入っているので、
शिक्षा [śikṣā] という、サンスクリットの正しい発音をまとめた文献と照らし合わせると、
それは間違いとなります。
それでも通じるので、通じればOKだとしたら、
それが他のものと混同されにくいという点では良いですが。

शिक्षा [śikṣā] はとても小さな文献で、
サンスクリットに関するあらゆるものを学ぶ上で一番基本的なものなので、
とても簡単でシステマティックなアイディアなので、
サンスクリットを学ばれる最初に押さえておくと良いです。

大多数の人がここを明瞭にせずに先に進んでいるのが現状ですが。

शिक्षा [śikṣā] で教えられている、どこを引き締めて音を出しているのか、
その部分をどうやって使っているのか、
という、スターナとヤットナというアイディアを押さえれば、
自然と正しい発音とは何かが導かれるので、

このような「ジュニャーナ?ギャーナ?ニャーナ?」
といったサンスクリットの音に関する疑問を持つことが無くなりますし、
どうしてこうなったのかも説明するときに、コミュニケーションがしやすくなります。


以前にもいくつか記事を書いたのでご参考にしてください。
71.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- (意味1:) 知る手段 
73.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam]) - ちなみに発音について 


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2017年6月15日木曜日

85.シャブダ(शब्दः [śabdaḥ]) - 音、言葉

タンプーラ、バンスリ、ハンド・タール、そしてミーラ・バイの歌声

シャブダとは


「音を出す」という意味の動詞の原型「シャブド(शब्द् [śabd])」が語源です。


タットヴァ・ボーダを勉強された人なら、

五大元素の一番最初のエレメント、

アーカーシャ(आकाशः [ākāśaḥ])の属性として、

教えてもらった記憶があるはずです。(忘れちゃってたら復習してね!)


シャブダの意味


シャブダという言葉はとても一般的な言葉なので、意味もいろいろありますが、

それらは大きくふたつに分けることが出来ます。

1.音

2.言葉


なぜこのように分けるのかは、以下のように説明することが出来ます。


「音を出す」にも、二種類ある


ダートゥ・パータと呼ばれる、2500年にパーニニよって著され、

今でも(私のクラスで)使われている、動詞の原型の辞書には、

それぞれの動詞の意味がサンスクリット語によって簡潔に著わされています。

「音を出す」という意味の動詞の原型は沢山ありますが、

パーニニによって、だいたいざっくりと以下のように分けられています。

1.人間の発声器官を使って、言語としての言葉を発する。

(व्यक्तायां वाचि, 明瞭に発声された言語という意味において) 

という意味と、

2.雷の音、動物の鳴き声、言葉ではない発声、言葉として聞き取れない発声

といった、「人間の言語ではない音を出す」

(अव्यक्ते शब्दे, はっきりしない音という意味において)

という意味に分けられている場合が多いです。


 しかし、「シャブダ (शब्दः [śabdaḥ])」という言葉はどちらにも使われています。

ゆえに、1.音 という意味でも、2.言葉 という意味にでも使われるのです。



サンスクリット文法において


文法用語でも、「シャブダ (शब्दः [śabdaḥ])」という言葉が使われる時には、
 
「言語を構成する、意味を持った音のひとかたまり」と使われることもあれば、

 「名詞の原型」という意味で使われることも多いですし、

「音そのもの」と言う時にも、शब्दस्वरूपम्  [śabdasvarūpam]  として使われます。

パーニニ文法の教えは、シャブダ・アヌシャーサナ(言葉の教え)として知られていますね。

パタンジャリのヨーガ・スートラが、

「アタ ヨーガーヌシャーサナム (अथ योगानुशासनम् [atha yogānuśāsanam])」で始まるように、

パーニニ文法の主要なコメンタリーのひとつ、महाभाष्यम् も、

「アタ シャブダーヌシャーサナム (अथ शब्दानुशासनम् [atha śabdānuśāsanam ])」で始まります。
 

プラマーナとしてのシャブダ


ヴェーダーンタをきちんと真剣に勉強している人には。

曖昧にしてはならないトピックが、プラマーナですね。

プラッティヤクシャの対象物として、色形、味、匂い、などと並んで、

シャブダ(音)というのがありますね。

しかし同時に、六つ目のプラマーナとして、

「シャブダ・プラマーナ」がありますね。

そこで、お決まりの質問・疑問ですが、

「シャブダって、プラッティヤクシャでも出て来たじゃん?」

「音も聴くし、ヴェーダーンタというプラマーナも、シュラヴァナとかいって、聴いてるし、、、」

と思うのは不思議なことではありません

違いは、

プラッティヤクシャの音(シャブダ)は、「知られる対象物」であり、

プラマーナとしてシャブダは、「それによって何かを知る手段」なのですね。

サンスクリット語で言った方が分かり易いかもしれません。

「プラメーヤ(प्रमेयम् [prameyam])」

と、

「プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])」

の違いです。

प्र + मा (プラ+マー)は、「知る」という意味の動詞の原型と接頭語ですね。

そこに、「対象物」と言う意味の「ヤ」という接尾語をつけると、「プラメーヤ」となり、

同じ動詞の原型と接頭語に、「手段・道具」という意味である「アナ」という接尾語を付けると、

「プラマーナ」となります。

これは、Enjoyable Sanskrit Grammar Volume 3 でゆっくり説明しています。

サンスクリットの文法を少しでも知っていると、

ものごとの理解が明晰になり、深まりますよ!


文献で使われている「シャブダ」という言葉


私が一番に思い出すのは、カタ・ウパニシャッドの始まりの場面です。

死神ヤマ・ラージャが、物覚えの良いナチケータスを気に入って、

首飾り(सृङ्का [sṛṅkā])をプレゼントするのですが、

シャンカラーチャーリアのコメンタリーで、その首飾りが、

「音の鳴る(शब्दवती [śabdavatī])」、そして

「宝石から出来た(रत्नमयी [ratnamayī])」と説明されているのが、

鮮明に想像できて、素敵だな、と思ったものです。





関連記事:

五大元素(パンチャ・マハー・ブータ/パンチャ・タットヴァ)について 

53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源

質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?


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2017年5月12日金曜日

ラーマーヤナ 日本語訳 (रामायणम् [rāmāyaṇam])

プージャ・スワミジの「ラーマーヤナ」シリーズを復習がてら、
原文から日本語訳を試みてみました。

スワミジは、原文の一言一句を丁寧に、聴いている生徒の精神成長に、
そのまま直結して役立てるように、解説してくれます。
ゆえに、一語ごとに最低一パラグラフは必要になります。

スワミジご自身が、ラーマーヤナが教える普遍的価値観が受け継がれている
インドの伝統文化の中で生きてこられ、
その価値観をご自分の自然な資質とされて来たのですから、
教えている価値観が自分自身の価値観と完全に一致している、
そんな先生が教えてくれるラーマーヤナの一言一句は、
ラーマーヤナ、先生、自分、と一直線で届きます。

「ヒンドゥー教」とは、外国人が勝手につけた名前ですが、
サンスクリット語では「サナータナ・ダルマ永久不変のあり方)」です。
本当に、その言葉はその意味そのものなのだということを、
プージャスワミジは教えてくれました。

訳文は現代日本語、今現在の日本語、読んでわかってもらうための言葉です。
言葉はコミュニケーションの為にあるもので、自分の知識をひけらかす為ではないからです。

書籍として執筆する場合には、一語一語、語数を気にすることなく説明するつもりですが、
シュローカの対訳は、短いからすぐに書けるように思えて、
実は、伝えるべきアイディアを出来るだけ少ない語数に圧縮しなければならないので、
それはそれで、頭を使いますね。。

ラーマーヤナは古典サンスクリット語の端正なスタイルで書かれており、
サンスクリット語文法の勉強にも適していると言われているので、
書籍版には文法解説も入れて、文法の勉強にも役立ててもらいたいと思っています。

तपःस्वाध्यायनिरतं तपस्वी वाग्विदां वरम् । नारदं परिपप्रच्छ वाल्मीकिर्मुनिपुङ्गवम् ॥ १॥

偉大な修行者であるヴァールミーキは、タパスと文献を繰り返し勉強することを常に愉しみとし、最上の学識者であり、思考する人々の最も秀でたナーラダに、敬謙な姿勢をもって尋ねました。


को न्वस्मिन्साम्प्रतं लोके गुणवान्कश्च वीर्यवान्। धर्मज्ञश्च कृतज्ञश्च सत्यवाक्यो दृढव्रतः॥ २॥ 

「この時代のこの世に一体、成熟した人間としての資質を持つ人はいるのでしょうか?心身が強く鍛えられていて、正義を体現している人格者であり、恩義を忘れず、真実のみを話し、決心したことを守り通す人とは誰ですか? 

चारित्रेण च को युक्तः सर्वभूतेषु को हितः। विद्वान्कः कः समर्थश्च कश्चैकप्रियदर्शनः॥ ३॥ 

 人々に英雄伝が語り継がれ、全ての生きるものに恵みを与えるような人は誰ですか?学識者であり、どのような状況にも応えられる有能な手腕がある人とは誰ですか?そして、常に朗らかで愛すべき容姿を持った人とは誰なのでしょうか?

आत्मवान्को जितक्रोधो द्युतिमान्कोऽनसूयकः। कस्य बिभ्यति देवाश्च जातरोषस्य संयुगे॥ ४॥

心身が調和しており、怒りに負かされない統合した人格を持ち、輝きを放ち、嫉妬に苛まされない人などいるのでしょうか?戦いにおいて、間違った者を正すことに長けたその人を、神々達でさえも怖がるという、そのような人は誰ですか?

एतदिच्छाम्यहं श्रोतुं परं कौतूहलं हि मे। महर्षे त्वं समर्थोऽसि ज्ञातुमेवंविधं नरम्॥ ५॥

このような人について是非話を伺いたいと私は強く熱望しています。マハリシよ!三つの世界を往来しているあなたなら、このような人間がいれば知っているはずです」
 




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こちらも:
65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])- 世界のあり方を支えている法則  

ラーマといえば、ダルマとは何かを人類に教えるために表れたアヴァターラですからね。
正義とは何かのアーキタイプなのです。

32.クーパ(कूपः [kūpaḥ])- 井戸 (ラーマについてちょっと解説しています)

25.キム(किम् [kim])- 何 (ラーマもちょっと出てくるけど、殆ど文法の話ばかり)

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ]) 

21.カター(कथा [kathā])- お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話  

番外編: マルちゃん(महिषासुरमर्दिनी [mahiṣāsuramardinī])

video


通称、マルちゃん。精神的に独立しているクールなレイディです。

私が命名したのですが、日本語ではありません。

私が命名したのですから、サンスクリット語です。

本名は、マヒシャースラ・マルディニーちゃんです。

マヒシャという魔物を殺す者(女性形)。ドゥルガー女神の別名。

マルディニーのマルちゃんです。




マヒシャースラ・マルディニーみたいに、

ネズミとかから女子寮を守ってね、という願いを込めて命名された、

マルちゃんの名前の文法的由来は、

「飛び乗って、切り刻んで、殺す」という意味の、
「mrd」に「~する者」の女性形が、マルディニーです。
まさに、ネズミを百発百中で仕留めるマルちゃんにぴったりの名前。
すごいね、マルちゃんは。

video

「मृद् [mṛd]」に付けられた接尾語「इन् [in]」は、文法的には、

単に「~する者」という意味だけではなく、

「それをいつもしている者」(ताच्छील्ये)

さらに、「それをするのがとても上手な者」(साधुकारिणि)

という意味が含まれています。

まさに、マルちゃんにぴったりです。

3.2.78 सुप्यजातौ णिनिस्ताच्छिल्ये ।
(वा,) साधुकारिण्युपसंख्यानम् ।




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2017年4月29日土曜日

84.リシ(ऋषिः [ṛṣiḥ]) - マントラを発見した聖者・賢者



リシとは


リシという言葉は、「マントラを得た人・発見した人」

そして、「知識により、サムサーラの向こう側を見た人」とも定義されます。

(शब्दकल्पद्रुमः - ऋषति प्राप्नोति सर्व्वान् मन्त्रान् ज्ञानेनपश्यति संसारपारं वा इति)


ヴェーダと呼ばれる聖典は、マントラによって構成されています。

マントラとは、サンスクリット語の文章の集まりで、

人間の幸せの追求に役立つ知識を教えています。


サムサーラとは、自分の本質以外のものに幸せを求め、追いかけ続ける人生。

体験に幸せを求めている限り、サムサーラは続きます。

サムサーラの向こう側とは、つまり、あらゆる体験の主体である自分自身の本質です。


リシの語源



リシ(ऋषिः [ṛṣiḥ])という言葉の元となる、動詞の原型「リシ(ऋष् [ṛṣ])」は、
 
2500年前の文法家パーニニの定義によると、

「गतौ [gatau]」、直訳すると、「行く」となりますが、

それはつまり、「辿り着く」「得る」「理解する・知る」、

そしてものごとが明らかに「見える」という意味でも使われます。

 「マントラを得た人・発見した人」、「サムサーラの向こう側を見た人」という意味の

 リシ(ऋषिः [ṛṣiḥ])という言葉は、そのような意味で派生しているのです。


マントラを「発見した」とは?


マントラとは、ヴェーダを構成している、サンスクリット語の文章です。

それらの文章は、「発明された・著された」のではなく、「発見された」と言われます。


人間の経験とそれに基づいた理論、さらに憶測に基づいた思考を記したものは、

「哲学」とされます。

「物語」や「詩歌」 も、人間の創作です。


いっぽう、

この世界に常に存在していた法則や定理が、

熱心にひとつの研究に専念していた研究者によって見出されるように、

この世界の創造と共に常にある知識は、マントラという形で、

タパスによって鍛えられたマインドを持つリシ達によって発見されたとされます。 


ゆえに、ヴェーダで教えられているマントラは、特定の人物の作品ではなく、

マントラで教えられている知識は、人間の経験・思考の集積である智慧や、

ましてや哲学とも呼ぶことはできません。


では、マントラで教えられている知識とは、どのような知識なのでしょうか?

リシ達が知っているのはどんな知識?


「知識により、サムサーラの向こう側を見た人」

というのも、リシの定義にあります。

リシによって発見された知識を、「アールシャ・ヴィッディヤー(आर्षविद्या [ārṣavidyā])」と言います。

「アールシャ(आर्ष [ārṣa])」 = リシの、リシによって発見された、
(リシ(ऋषि [ṛṣi])→アールシャ(आर्ष [ārṣa])への変化については、下に説明します。)

「ヴィッディヤー(विद्या [vidyā])」 = 知識 

恩師プージャ・スワミジが名付けた、こちらのグルクラムの名前ですね。

ちなみに、グルクラムとは、先生の家という意味で、生徒が先生のもとに住み込みで、

祈りのある規律に沿った生活とセーヴァーをしながら、

朝から晩までガッツリ猛勉強する為の場所です。(のんびりだらだらする場所ではありません。)

クリシュナのグルは、サンディーパニー・リシ。プージャスワミジの最初の3年コースが開催されたグルクラムの名前ですね。


リシによって発見された知識は、上でも見たように、ある個人や宗教に属するものではなく、

人類全てに共通する知識です。

「人類全てに共通する」 とはつまり、

全ての人間、あらゆるものに共通する「真実」であり、「本質」である、ということです。

どれだけ悲しんでいても、怒っていても、嫉妬や憎悪に狂っていても、

心の状態に影響されず、触れられず、来ては去って行く感情や経験を、

ただただ平静に見つめている、

心の状態のみならず、身体の状態からも、過去の行いからも、

そしてこの世界のあらゆる何ごとからも、限界を与えられていない、

それらを平静に見つめながら、現実を与えている、完全に満ちた存在。

満ちているとは、全ての人間が常に探している、幸せの本質。

それが、本当の自分、自分の真実であり、本質であるということ。
 
それが、この広い世界のいつかどこかに、幸せを見つけ出そうとしてもがきまくっている、

自分という存在の、真実なのです。


自分自身の身体や心、感情、記憶、健康状態も、

そして、現在過去未来のあらゆる体験も全ては、この広い世界に含まれていて、

終わることの無い幸せ探しの地図の、一部分に過ぎません。


どのエリアを探究しても、そこで見つかる幸せは儚いものです。

なぜなら、探している場所を間違えているからです。


暗い自分の部屋の中で指輪を落としてしまったけれど、

「暗いから探せない。外は明るいから、外に行って指輪を探しましょう。」

と言っているのと同じことなのです。



マハルシ?マハリシ?


「偉大なリシ」という意味で、表記は、महर्षि [maharṣi] もしくは、महऋषि [mahaṛṣi] となります。

「ん」を除く、全ての文字に母音が含まれる日本語では、

Rの音が単品では表記できないので、「ル」とか「リ」とかでしか書けませんね。


महत् [mahat] = 偉大な 

という形容詞を前に付けた、複合語(サマーサ)です。


複合語が造られる過程は、先のアールシャと共に、
文末にパーニニ・スートラで解説しておきました。
ご興味のある方、文法を勉強されている方は、睨めっこしてみてください。

相変わらず、ヴェーダーンタとパーニニ文法に偏った話の展開ですが、

それが私の専門なので、当然ですね。。。





<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<



「マハリシ」という複合語の出来る過程

महांश्चासावृषिश्चेति महर्षिः/महऋषिः ।

महान् 1/1 + ऋषिः 1/1

महत् + सुँ + ऋषि + सुँ    
同格の言葉が複合語に。 (2.1.57 विशेषणं विशेष्येण बहुलम्। ~ समासः तत्पुरुषः)

महत् + ऋषि       
複合語になると、まとめてひとつのप्रातिपदिकになり、その中のसुप्は消去される。
(1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च। ~ प्रातिपदिकम्, 2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः। ~ लुक्)

मह आ + ऋषि
महत् の後ろに同格の言葉のある複合語は、最後のत्がआに変わる。
(6.3.46 आन्महतः समानाधिकरणजातीययोः। ~ उत्तरपदे)

महा + ऋषि
मह の अ と、आ の間で、सवर्ण-दीर्घ-सन्धि が起きますね。
(6.1.101 अकः सवर्णे दीर्घः। ~ अचि एकः पूर्वपरयोः संहितायाम्)

महर्षि
आ と ऋとの間は、गुण-सन्धि ですね。(6.1.87 आद्गुणः। ~ अचि एकः पूर्वपरयोः संहितायाम्)

गुण-सन्धि の代わりに、オプショナルで、サンディが起きない現象(प्रकृतिभाव)が見られます。

その場合、前にある長音は短くなります。(6.1.128 ऋत्यकः।, लघुのअच्-सन्धि の最後のスートラです。)
महऋषि

इकारान्त-पुंलिङ्ग-शब्द として、हरिवत् に活用します。


リシ(ऋषि [ṛṣi])→アールシャ(आर्ष [ārṣa])への変化について。

ऋषेः इदम्, that which belongs to ṛṣi, リシに属するもの

ऋषि + ङस् + अण्    
「~に属するもの」という意味で、अण् という接尾語が、第6ケースで終わる名詞の原型の後に付きます。(4.3.120 तस्येदम्।)
अण्  のように、ケースで終わる名詞の原型の後に付く接尾語を、タッディタ(तद्धित-प्रत्ययः)と呼びます。

ऋषि + अण्       
タッディタで終わるひとまとりはप्रातिपदिकとみなされます。そして、上の複合語のように、その中のसुप्は消去される。
(1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च। ~ प्रातिपदिकम्, 2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः। ~ लुक्)

ऋषि + अ       
अण् の最後の ण् は、इत् と定義され(1.3.3 हलन्त्यम्।)、消去されます。(1.3.9 तस्य लोपः।)

आर् षि + अ
इत् である ण् は、अङ्ग の最初の母音にヴリッディ(वृद्धि )を起こします。(7.2.117 तद्धितेष्वचामादेः।)

ヴリッディ(वृद्धि )とは、आ, ऐ, औ の3つの音ですね。(1.1.1 वृद्धिरादैच्।)
ऋ に一番近いヴリッディの音は、आ です。(1.1.50 स्थानेऽन्तरतमः।)
ऋ の音から変化した आ の後ろには、र् が付きます。(1.1.51 उरण् रपरः।)

आर् ष् + अ
अङ्ग の最後の इ が落ちます。(6.4.148 यस्येति च।)

これで、आर्ष の出来上がりです。



初めて見た人には、なんのこっちゃ?と思われて当然ですが、
少し勉強すれば、全てが繋がっているので、分かってきて面白く楽しくなります。
必要なのは、少しの時間を割いて作ることだけです。

文法の勉強は、脳の活性化に最適です。
「脳のヨガ」 とも呼びたいところです。
身体は毎日鍛えないと、しなやかに保てません。脳みそも同様です。
 物質的な身体を使ったヨガは、多くの人が何時間もかけてしているけど、
文法とか、思考能力を使うことは、カリユガに生きる人々は、
とても嫌がって一目散に逃げ出してしまいます。

せっかく人間として生まれた特権=ブッディという、
正しい思考が出来る可能性を秘めた、特別な能力を備えてもらっているのに、
間違った考えばかりに突き進んで、頭を空っぽにすることによってしか、
心の平和を得られないのは、MOTTAINAI。

正しい思考が出来る「可能性」としたのは、人間の考えとはその性質上、放っておいたら、
間違った考えに深く入り込むように出来ているからです。
「放っておいたら」、というのは、主観を取り除く努力を怠っていたら、というのと、
正しいプラマーナに触れないでいたら、という二種類の放置があります。

「XX筋を鍛える!」のと同じ熱意で、ブッディも鍛えて欲しいです。。。

2017年3月19日日曜日

83.マハートマー(महात्मा [mahātmā]) - 聖人、寛大な心を持った人

マハートマーの語源


マハートマーを「聖人」と訳しましたが、直訳すると、

マハット(महत् [mahat]) = 偉大な

アートマン(आत्मन् [ātman]) = 心

を持っている人が、マハートマー(महात्मा [mahātmā])です。

ふたつの言葉がひとつの言葉になるのを「サマーサ(複合語)」と言います。

文法に興味のある人の為に、最後に詳しい説明を載せておきました。

マハートマーといえば、ガンディー・ジー。ちなみに、インディラ・ガンディーを始めとするガンディー一家(ソニアとかラフールとか)は、マハトマ・ガンディとは縁もゆかりもありません。

なぜここで、マハートマーを聖人と訳したのか、

聖人とは何なのか?聖人なんてどこにいるのか?

そもそも、聖人がどうとか知って、自分の幸せの追求にどう関係しているのか?

というところまで見ていきますね。


マハットの意味


マハット(महत् [mahat])は「偉大」という意味で、

他の言葉が後ろに来て複合語(サマーサ)になると、「マハー」という形になります。

「マハーラージャ」とか、「マハーラクシュミー」とか「マハーマントラ」とか、

「マハーシヴァラートリー」というのもありますね。

すべて、「偉大な」とか、「一番秀でた」という意味です。

マハーラクシュミー

アートマンの意味


アートマン(आत्मन् [ātman])は、「自分自身」「本質」といった意味ですが、

パンチャ・コーシャのコラムで紹介したように、

「自分」という自己認識は、さまざまなレベルで為されるため、

アートマンの意味も、文脈によってさまざまな意味で使われます。

マハートマーという場合は、「心、アンタッカラナ」として解釈します。

なぜなら、人の偉大さとは、その人の容姿や国籍や性別や持ち物や財産ではなく、

その人の心のありかたによるものだからです。


偉大な心を持つ人とは


人は誰でも「自分は幸せになりたい」と願っています。

それは後ろめたい事でも何でもありません。

自分に対しても、人に対しても、まず「自分は幸せになりたい」と認めることが、

自分自身と周りの生き物全てに優しさをもって接し、調和しながら幸せを追求する、

大事で基本的な第一歩です。




「自分は幸せになりたい」と願う時、その「自分」とは何を指しているのでしょうか?

心が大きな人とは、この「自分」の意味が大きい人です。

この身体ひとつの、自分自身のみならず、家族や友達が幸せなら、自分も幸せだし、

自分の身内や同胞にとどまらず、

自分の知らない人でも、国籍や人種に関わらず、分け隔てなく、

幸せの手助けをしたり、痛みを感じ取ることが出来て、それを和らげようと思える人が、

心の大きな人です。


逆に、小さな心を持っている人とは?


大きな心を持っている人の、逆を想定すれば明らかですね。

自分さえ良ければいい、自分の身内だけ良ければいい、

自分とは別の国や民族・宗教の人は、どうなっても構わない、

という考えが基礎となって、発言・行動する人ですね。

気を付けなければなりません。



自己満足とは?


日本語では「自己満足」という言葉が、

自分を犠牲にして人の幸せを喜ぶ人に対して、否定的な意味で使われるようですが、

それが人助けをするフットワークの軽さを躊躇させているのなら勿体ないですね。

「相手が迷惑かどうかを確かめない」 というのと、「自己が満足する」というのは、

同義語ではありません。

自己が満足することは、誰からも批判されるべきことではありません。

しかも他を幸せにすることにより自分が満足することは、素晴らしいことです。



聖人とは?


マハートマーを聖人と訳しましたが、聖人とはどのような人間を指すのでしょうか?

ヒマラヤの洞穴の中で、真っ白い髭をのばしている人?

雪の中で、ふんどし一丁で、蓮華座を組んで、微動たりともしない人?

手品のような、奇跡を起こしたり、飛んだりできる人?エキセントリックな人?



マハートマーと同じような意味で使われる言葉の「サードゥ」は、

「人の幸せを実現を助けられる人」と定義されます。

それはまさに、偉大なほどに大きな心を持っている人のことですね。

 
欠点だらけの自分を見ていても、ジャッジすることなく、

「もっとこうなればいいのに」や、「この人をどう利用できるか」といった目で自分を見ることなく、

自分の痛みや辛さを、瞬時に汲み取ってくれて、自分と同じように痛みを感じてくれて、

必要であれば、何でも助けを与える準備の出来ている人。

自分の幸せをいつも願い、祈ってくれている人。


マハートマーや聖人と呼ばれる人と一緒に居たり話したりすると、

心地良く、安心できて、自分のことが好きになれるのは、

その人自身が、自分や周りにリラックスしていて、

ジャッジしたり、無理に変えようとしたり、見下げたりせず、

何も問題ないこの世界の表れの一部として、自分を見ているからです。


聖人はどこにいる? 


聖人に出会うために、人は放浪の旅に出て、インドや様々な国を彷徨います。

上に書いたような、マハートマーや聖人と呼ばれる人に出会えることは、とても良い経験です。

しかし、結局、人間として生まれて、聖人を見つけるべき場所は、ただ一つです。

それは、あなたの中、そう、自分の中なのです。



人の痛みが分かる。知らない人でも助けたいと思う。それを行動に移せる。

周りから幸せにしてもらおうとしているのではなく、

周りに幸せを与えようとしている。

褒められても、馬鹿にされても、同じように平穏な心で、自分も周りも愛して、幸せでいる。

そのような心である為に、特別な身体や資格は要りません。


聖人というと仰々しく感じますが、それはどんな人の中にでもある、

聖人的な一面が、その人の主な性質として、培われた人なだけなのです。


その聖人的な心のあり方を、自分の中に見つけ、それに価値観を見い出し、

聖人的な心のあり方が、自分の自然なあり方となるまで、意識して育んでいけるようにと、

ギーターの2章や12章、13章、16章などの部分で、

聖人的な心のあり方について教えられているのです。




私なんかが聖人になろうとしていいのか?


私の人間性が変わってしまうと、家族や友達が、「お前、変わったな。。」と寂しがるのではないか?

と思うかもしれませんが、自分が聖人らしく変化することは、

家族や友達だけではなく、世界中の人間や動植物にとって、

とっても有難いことであり、大歓迎・大賛成されることです。躊躇することはありません。

自分が自分の中に平安(シャーンティ)・幸せを見い出し、

幸せなあり方で人や動植物と接すること以上に、人間として求められるものはありません。


聖人的な資質を磨く、というのは、

世界や自分に対する理解をより客観的にし、

世界や自分に対する意見や行動態度に、

より大きな思いやり(コンパッション)を表すことです。

人間としての本当の成功とは、つまるところ、世界をどれだけ変えたかではなく、

自分がどれだけ変われたかなのです。




ギーターの中での「マハートマー」


बहूनां जन्मनामन्ते ज्ञानवान्मां प्रपद्यते ।
वासुदेवः सर्वमिति स महात्मा स दुर्लभः ॥७-१९॥
bahūnāṃ janmanāmante jñānavānmāṃ prapadyate |
vāsudevaḥ sarvamiti sa mahātmā sa durlabhaḥ ||7-19||

シャンカラーチャーリヤの注釈に沿って、出来るだけわかりやすく意訳すると、

बहूनां जन्मनामन्ते プンニャ(徳)を積みながら幾多に繰り返されてきた人生の最後に、
ज्ञानवान् 知識を得る為の心を持った人は、
वासुदेवः सर्वमिति 全てはヴァースデーヴァ(全ての存在の原理である意識)であると、
मां प्रपद्यते 私(バガヴァーン)を、(自分自身の意味として)得ます。
स महात्मा そのような人は、マハートマーであり、
स दुर्लभः とても稀です。


ここでのマハートマーは、その人の本質(アートマン)が無限(マハット)であることを表しています。
(न तत्समोऽन्योऽस्त्यधिको वा।)

本質は無限であるゆえに、それを「経験」や「実現」することは出来ません。

時間の制限もないことから、既に在り、既に達成されている自分の本当の意味なのですから、

時間の中で経験して、実現してやろうという、「ヴェーダーンタ=理論、瞑想=実践」

という陳腐な考えを持つのは、ヴェーダーンタを理解していない証拠です。


人間は皆、マハートマー(無限の存在)なのに、それを知らない。

ゆえに、自分のことを小さな存在だと結論づけて、でも本質は小さな存在では無いため、

居心地が悪く、それをどうにかしようと状況を変える為にジタバタしているのが、

地球の人口70億人全員の人生のあり方。

そもそもの原因は、自分の本質を知らないことなのだから、

解決策は、自分の本質を知ることでしかない。ジタバタだけでは解決しません。


このシュローカでの ज्ञानवान् の ज्ञान は、

前に、ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- 知る手段 の項で紹介した、

知る手段=心のあり方としての、ज्ञानです。 


自分の本質(アートマン)が無限(マハット)であることを知るための心は、

それを受け入れられるくらいに偉大で大きな(マハット)な心(アートマン)が必要なのです。

ゆえに、マハートマー(聖人)としての資質を自分の中に見つけて培うのは、

相対的な幸福の追求にも、そして根本的な問題の解決(モークシャ)にも、

必然的なのです。




<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<



サンスクリットの文法を勉強されている方へ:

महान् आत्मा अन्तःकरणं यस्य सः [mahān ātmā antaḥkaraṇaṃ yasya saḥ]
その人の(यस्य ) 心(आत्मा=अन्तःकरणम्)は、偉大(महान्)である。
その人 (सः )を、マハートマー(महात्मा )と呼びます。

महान् とआत्मा は、それぞれ第1格、यस्यは第6格なので、
私の開発したコード・システムでは、この複合語は、「116B」と分類されます。
Bはबहुव्रीहिの略です。

महत् + सुँ + आत्मन् + सुँ     2.2.24 अनेकमन्यपदार्थे । ~ बहुव्रीहिः समासः
प्रातिपदिकसंज्ञा    1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
महत् + आत्मन्     2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः । ~ लुक्
मह + आ + आत्मन्      6.3.46 आन्महतः समानाधिकरणजातीययोः । ~ उत्तरपदे
महा + आत्मन्  6.1.101 अकः सवर्णे दीर्घः
महात्मन्    6.1.101 अकः सवर्णे दीर्घः

普通のअन्-ending として活用します。

2017年2月13日月曜日

82.アーナンダ(आनन्दः [ānandaḥ]) 幸福、あらゆる制限から自由であること

アーナンダの語源


「アー」と「ナンダ」から成り立っています。

「ナンダ(नन्दः [nandaḥ])」は、「幸福」という意味。

नन्द् (nand) という、「幸せである」という動詞の原型から造られています。

「アー(आङ् [āṅ])」は、「完全に」という意味で、「幸福」を修飾しています。


「ナンダ」は、幸せ。

「アーナンダ」は、完全な幸せ。

幸せって何?

さらに、完全な幸せって?そんなものあるの?

どこまで幸せになっても、もっと凄い人はいっぱいいるし、

どうせどれもこれも束の間の出来事。

完全な幸せは、何処に行けばあるのでしょうか?

 

アーナンダの意味



アーナンダとは、英語ではBlissとかと訳されていますが、

Blissは、分かりづらくさせている言葉の選択ですね。

普通に、Happinessで良いのです。

私達が人生の中で経験してきた、「幸せ」「幸福感」が「アーナンダ」ですし、

それらの経験的な幸福感は、「アーナンダ」の本質を知る、大切な窓となります。



幸せとはナンダ?


あなたにとって幸せとは何ですか?

特別な人と一緒に居る時、嬉しい言葉を頂いた時、尊敬している人から受け入れられた時、

美味しいものを食べている時、、、、

人それぞれ。

しかも、~な時、というように、時間や状況に制約されたものばかりですね。

人にとっての幸せの対象が、自分にとっての幸せの対象であるとは限りません。

だから、皆それぞれに、自分の家族や、自分の住んでいる地域や生まれ育った文化に囲まれて、幸せでいられるのです。
 
自分の中でも、時や場所によって、幸せの意味は変わりますね。

20年前に熱狂していた人物や場所・物が、今となっては、何がそんなに嬉しかったのか?

と思うことはありますね。

いろいろ考察してみて分かったことは、

幸せの意味はひとそれぞれ。

数え切れない対象物の種類と、それぞれ個人の数え切れない状況によって、

相対的にコロコロ変わるものです。


幸せの本当の意味



しかし、そこに変わらないものがひとつだけあります。

どの人においても、どの時代や民族、宗教、性別、立場においても、

共通する、たったひとつの「幸せの意味」があります。

それは、幸せを感じているその人そのものです。

幸せとは、自分自身なのです。

自分自身が幸せの意味である、ということを思い出させてくれる状況が、

大切な人と一緒にいる時間であったり、尊敬している人から認められることであったり、

欲しかったものを手に入れたり、嫌なものを撤去した時だったりするだけで、

幸せそのものの意味は、自分自身なのです。

へ~、それは知らナンダ。


なぜ知らなかったのでしょうか。

知る術が無かったからです。

私達が知ることが出来るのは、自分以外のもの、つまり経験の対象だけです。

五官という感覚器官を通して、もしくは通さずに、直接知り得るもの、

それは、あらゆる経験です。

その経験から、いろいろ分析して、推論や理論を立てることも出来ます。

経験や、経験から得られた理論は、何もかも、あらゆるコンセプトは、

私が対象化している、対象物です。

それらの対象物を対象化している、主体である私は、対象物ではありません。

つまり、私達は、どのような経験を通しても、

経験者である自分の本質を知ることは出来ないようになっているのです。

ちょうど、自分の顔は、自分ではどうひっくり返っても、自分では見えないように。

自分の顔を見るには、鏡のように、直接的な経験とそれによる推論とは別の、

知る手段が必要になります。


人間の経験によって知り得ない知識を教えるのが、ヴェーダです。

あらゆる幸せの追求において、成功へと導く術の知識は、

経験によって得られるものもありますが、

ヴェーダの教える範囲は、経験によっては得られない知識です。

プンニャとパーパ、デーヴァター、祈りの儀式について教え、

人間の幸せの追求を支援します。

家庭の義務を果たし、社会へ貢献すること自体が祈りの儀式であり、

デーヴァター達を喜ばせる行為であり、そこからプンニャを得て、

より快適で充実した人生を送り、より分別のある思いやりに満ちた心を育て、

葛藤から自由で平安な心を得るのです。
 
このように、成熟した心を持った人は、

あれやこれやという「普通一般に言われる」幸せの意味は、
 
時間に制限されたものであることが分かります。


そのような限られた幸せは、使い捨てカイロのようなもので、

次から次へと、永遠に、新しい幸せの対象を追い求め続けなければなりません。

そのサムサーラというカラクリを見抜けた、分別(ヴィヴェーカ)のある人に、

ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)は教えます。

「あなたの本質は、アナンタ(制限の無い存在)なのですよ。」


もっと分かり易く: 幸せとは?


より的を射て、より分かりやすい、幸せの定義は、

「自分を縛る制限から自由になること」 です。

自分とは常に、欠陥だらけの身体や心や感覚器官から制限を受け、

さらに自分を取り巻く状況からも制限されっぱなしです。

「私は金持ちではない、有名ではない、賢くない、愛されていない、ない、ない、ない」

というように、ありとあらゆるものから、束縛されている存在が、自分です。

ゆえに、人生に与えられた時間は、もがき続ける時間。

ジタバタと、もがきにもがきまくって、

たま~に、ちょこっとした制限から解放されて、「あ~幸せ~」。

そう、幸せとは、自分を雁字搦めに束縛している制限からの解放です。

好きな人と一緒にいる時は、好きな人から離れている時間や空間の制限から解放されている。

好きな人から認証されたり、愛情表現されると、

自分は好きな人とは別の存在だという概念から解放される。

欲しかったものを手に入れると、自分と欲しかったものを引き離していた境界線がなくなり、

物欲しげだった自分から解放される。

音楽、読書、映画、瞑想、お酒、薬物、熟睡などで、我を忘れている時は、

まさに、制限だらけの惨めな自分を忘れられているから、幸せ。

幸せの正体は、制限からの自由・解放、だったのです。


この幸せの定義は、

とても、つまらないようで、

とても、重大な定義です。


ヴェーダは人間に、最後の最後に教えます。

(最期じゃないですよ!既に達成されている事実であるゆえに、
知るだけで、実践しなくてもよいので、最期でも大丈夫ですが、
出来れば元気なうちに知ってください!)

「でも、本質的にあなたは、制限された存在ではないのですよ。」

じゃあ、何なのでしょうか。

「あなたの本質は、あらゆる制限から自由な存在です。

つまり、アナンタ=アンタ(制限)の無いもの、無限の存在です」


「へ~、そうナンダ。でも、私が無限存在=アナンタって言われても、ピンと来ません。

私の幸せの追求とどう関係があるのでしょうか?」

と、思ってしまうのが人間であるというのを良く知っているので、

人間の幸せの追求を完全に満たすための知識を与える為にあるヴェーダーンタは、

分かり易く教えてくれます。

「あなたは、アナンタ=アーナンダなのです。

つまり、あなたが常に探し続けていたもの=アーナンダ=幸せな自分なのですよ。」

サットチットアーナンダアートマー
サッティヤムニャーナムアナンタムブランマ  
ですね。単なるもじりではないです。)


「その、本質的で、完全な幸せである、アーナンダはどのようにして経験出来るのでしょうか?」

は、よくある質問ですね。

ありとあらゆる経験、幸せな経験も、不幸な経験も、来ては去って行くものです。

来ては去って行く経験を見続けている、

来たり去ったりしない、今ここにいる自分が、アーナンダなのですよ。

全ての経験の中に、常にあり続けていたけど、見逃していた、自分自身のことです。

それを知るのに、特別な経験は何も必要ありません。

必要なのは、正しく知る手段(プラマーナ)のみです。





<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

こちらも:

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間

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